結婚の3倍

よく「離婚するには結婚の3倍のエネルギーが必要」と表現するのを聞きますが、なにかこういう言い方になぁんとなく違和感。


なんというか、ちょっと言い方を悪くするなら結婚は簡単だけど離婚するのは難しい(大変)みたいなことを言っているのではって気がします。ですが、アタシの感覚ではそもそも簡単だと思って結婚してるから離婚の方が大変だぁって、そう感じるってことじゃないかと思うのです。


そりゃぁ結婚を難しく考えていたらいつまで経っても結婚出来ないっていうのもありますが。



そして一番強く言いたいのは離婚するのに結婚の3倍のエネルギーが必要だというのであれば長い結婚生活を続けていくにはたぶん離婚の10倍かそれより多くのエネルギーが必要だと思う。なんというか「結婚」や「離婚」の瞬発的なエネルギーというよりは「スタミナ」みたいなもの。っていうか、結婚する時にその「スタミナ」があるかどうかを見極めての「結婚」じゃないかとアタシは思ってるのですが。

やりたくてやっている。

たぶん10年くらいは前じゃないかと思うのですが、仕事関係の人から「仕事だってなんだってみんな【やりたくてやってる】んだよ」と言われ「えぇ~そうかなぁ~、仕事してたらイヤだなぁ~って思いながら渋々やることだってあるんじゃないですか」と応えた覚えがある。


が、最近確かにみんな「やりたくてやってる」んだよなぁと思うようになった。
(アタシにそう言った人はたぶん似たような年齢の人なんだけど、アタシがようやくその人と同じような精神年齢になったのかも。)



以前に「人間の心は数直線」みたいなことを書いたような気がする。
好きか嫌いかハッキリしているようなものについては自分の心の目盛り?が目で見てハッキリわかるくらいな大きな目盛りになっていて、だから例えば9:1で好きとか、8:2で嫌いとかもうその違い?が明らか。
で、どっちもいいなぁ、どっちが好きかわからない、みたいなのは、その目盛りがものすごく細かくついていて、ものすごぉ~くズームしたら実は49999:50001みたいな、そういうことなんじゃないかなとアタシは思っている。ソレ、遠くから見たら半々ぐらいだよなぁ、みたいな。(別にそこまでズームして自分の気持ちに白黒つけなくちゃならないこともないから、フツーはそこまでは考えないと思う。)



で、この「やりたくてやってる」ってハナシですが、これも「やりたい」「やりたくない」っていうどっちか一方を選ばなくちゃならないってことを考えると、結局は目盛りの大きさってことなのかな、と思ってしまう。
例えば本当にやりたくなくてやりたくなくて、でもしょうがなしやるっていう場合でも、絶対にやらないんだったら10割「やらない」ってことですよね。気持ちとしては「渋々」だったり「嫌々」だったとしても「やる」か「やらない」かで結局「やる」ことにしたんだったらものすごく細かくついた目盛りを読んだら50000000001:49999999999みたいなことじゃないかって思うのです。


つまり「渋々」だろうが「嫌々」だろうが、「やる」方が上回っている。
ソレ、自分でも気付けないくらいの「やりたい」気持があるってことじゃないの。
っていうか、気持ちとしては全然やる気ないですって感じかもしれないけど、「やる」と決めたのも確かに自分。
「やる」と決めた時点で「やりたい」ってことなんだと思う。(くれぐれも言いますが自分自身がソレに気付けているか気付かないかはまた別のハナシ。アタシみたいに「渋々やってるんだからやりたくてやってるわけじゃない」と思ってる人は気付けていない人だと思う。)


ホント、人生半分以上生きてきて、今更コレに気付いたところでどうってこともないですが、最近は今自分がしてることは全て自分がやりたくてやってることなんだなと納得しています。


自分の人生に於いてまわりの環境からの影響は少なからずあるのは認めますが、世の中のほぼ全てのことは自分がやりたくてやっているのだと思う。
(監禁されてるとかそういう特殊な事情を除いて。)

社会の効率化=家庭の非効率化→機械化

以前に今の世の中って「工場制手工業」だよなぁみたいなことを書いてるはずです。


色々なことが世の中の「その道のプロ」によって支えられてる感じ。



で、それはたぶん「効率」が良いから広まってきたんだと思うのですが、ここにきて社会の仕組みは「工場制手工業」にも関わらず家庭内ではソレをしてると「男女平等」みたいな絡みから「家内制手工業」が望ましいというか、望まれる?みたいなのがアタシの感覚からすると「なんかヘンなの」って思う。


相変わらずそういうちょっとした「矛盾」みたいなのが気になっちゃうのです。



なんというか、一般的な「主婦の仕事」みたいに思われてる「掃除・洗濯・炊事」(とか、まぁ「育児」とか)もダレがやると決まってるわけじゃなく出来るヒトがやるみたいなの。もちろん今時は家族全員働いてるんだからその時に出来る人がやるとか、はたまた「外注(総菜を買ってくるみたいなのも含めて)」とか、ソレをしてることに文句言いたいわけじゃなく、なんか「効率、効率、生産性」とかいうんだったら家庭内でソレを専門にやる人がいた方がずっと効率的なんじゃないかって思ってしまう。


で、そういうことを考えていたら「家庭」=「社会」とした時に効率を考えるなら機械にソレをしてもらうのが一番「安上り」なのかも、と思ってしまいました。例えば既にほぼ全ての家にありそうな洗濯機とか瞬間湯沸かし器(今時は住宅に「内臓」されてる給湯器?)とか、電子レンジ、炊飯器、食洗器などなど・・・まだまだ沢山あると思うけど、とにかく機械にやってもらう。



なんてことを考えていたら・・・今から3世代後くらいには洗濯物を干すとか食器を洗うことも「重労働」になっていたりして、「やったことないからやり方わかりません」みたいなことになるのかなぁ。
あ、もっと言ったら(これは3世代よりもっと先のハナシになると思いますが)「包丁なんて危なくて使ったことないですよ」って時代が来るのかも。



ソレが良いのか悪いのかは人ぞれぞれの感覚なんだろうな。