矛盾を感じる

「なにキレイゴト言ってんだ」と言われるだろうことはわかっていますが、気持ちです。



アタシは昔からそうですが、人間の行動に絶対ある「気持ち」を知りたいと常に思っています。
特に高校生の息子から「お母さんが『オレの為』っていうのは、所詮は自分のためでしょ」と言われてからは、気持ちのもっと奥にある気持ち、まぁ正確には違うと思いますが、深層心理みたいなところまでも知りたいと思っています。



昔からある言葉ではありますが、震災後強く言われてきている「絆」ってなんですか?
言葉は言葉でしかないけど、それを発している人間には気持ちがある。それを発している人は何をどう考えてこの言葉を使ってるんでしょうか。

「絆」もそうだし「繋がる」って言葉もそうですが、現実を見てると単純に耳障りのいい「言葉」にしか聞こえない。



だって、瓦礫の受け入れどころか、花火や雪(←じゃなかったっけ?)ですら放射能だか放射線で身体に影響があったらどうしてくれるんだ・・・みたいな感じで結局中止になってるじゃないですか。野菜みたいな食品に関してもそうですよね。
そりゃ、言い方というか考え方としたらそういう「モノ」が悪いんじゃなくて、政府?のやってることが信用出来ないってことなのかもしれないけど、現実の「結果」に違いはないですよね。
なんかなぁ・・・って思ってしまう。



うろ覚えかつアタシの印象でモノを言ってますが、これは遠巻きに被災地を見てる人に限ったことじゃなく、被災地を離れた人が「汚染から逃れるために離れたのにわざわざ持ってきてやらないで」みたいなこともあるみたいだからホント、立場に関係ない人間の気持ち、本当に人間の中心に近いところの「心情」なんじゃないかと思います。
言っておきますが、そういう気持ちもわからないわけじゃありません。仮に・・・という話ですが、アタシ自身「コレ食べてたら10年後は生きてるかわかんないよ」っていうものがあったとして、そういうことを全く気にせず食べられるかって言ったらそりゃぁ慎重になりますよ。


でも、だったら最初から「絆」とか言わないほうがいいんじゃないの?って思っちゃいます。



あ、そりゃ、「絆」って言ってる人はちゃんとその心に従って行動しているんだと思います。そういう人が「そんなのやめてくれ」って言ってるわけじゃないと思います。仮に10人の人がいた場合、8人の人が「絆」って言っていて残りの2人が「中止だ」って言っているなら言ってることとやってることが矛盾しているわけじゃないですよね。でも最終的な意見としては「中止」になっちゃうわけだから社会というか、もっと大きな括りの中では「矛盾」て気がします。




アタシは元々冷たい人間だからだと思いますが、「絆」とか「ボランティア」とか、そういう言葉が好きじゃないです。
っていうか、アタシは出来れば自分の口からそういう言葉を発したくないと思ってます。


あ、「繋がる」なんてのも・・・別に繋がってなくてもいいかな・・・とか思っちゃいます。
(念の為・・・・だからと言って自分一人で生きてるとか思ってるわけでもありません。繋がるところで人は繋がっていると思ってる。)