「割く」ことと「犠牲」は同じじゃないと思っている。

なにか最近の風潮というか考え方って「割く=犠牲」みたいにメチャクチャ単純な感じというか、もうちょっとの隙間もないくらいな「=」で繋がってる感じがしています。


なんでもかんでも個人の自由っていうのはまぁいいですが、例えば誰かと付き合ってそのうち結婚して・・・みたいなことになった場合、そこには家事や育児や人付き合いみたいな色々な事象が起きてくるはず。
そういうことに対して最近は「犠牲」っていう考え方がものすごく強いと思う。


これはあくまでもアタシの考え方ですが、そもそも付き合って結婚まで考える段階でその後起きてくる色々なことが多少なりとも想像できるのではって思うのです。(それとも「薔薇色の結婚生活」みたいなことだけしか想像しないのかな。)
そういう想像をしてなお「この人と一緒に生きていきたい」と思う人と結婚してるんじゃないのかな。


そういうことを考えるとどっちか一方がってことではないですが、お互いが相手や家族のためにナニカを割くことは「当たり前」なのでは。そうやって「割いたナニカ」はなんというかおもいやりの一部ではないかと思うのですが。


それを「割いたナニカ=自分が犠牲になった」みたいに感じるのって・・・なんだか結婚自体しない方がって思います。


自分のナニカを割いてもいいって思えるような人と結婚したほうがお互いのためって気がします。
あ、別にその一番の条件が「愛」だとか言ってるわけではないですよ。「お金」のために「割く」のか「犠牲」にするのかってハナシ。