単純に「良かった」で済ませていいのか。

【大阪女児不明 確保の男、もう1人を連れ潜伏先から外に 女児は栃木まで男と電車で移動か】


行方不明だった女の子が「自ら交番に逃げ込んで保護を求めた」ということで、無事に発見されました。
そこのところだけピンポイントで「良かった」というのは全く間違ってないと思います。


が、いつも言ってるように事件とか事故って結果じゃなくてスタート部分が肝心なんじゃないかとアタシは思ってる。


今のところわかってる「らしい」のは【ソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)で誘い出され】【男とともに大阪から栃木まで電車で移動した】ということですが・・・古い感覚のアタシからするとそこんところがもうなんだか・・・って思ってしまう。
よくわからないけどSNSってそんなに他人を信用させたり、信用したり「し易い」ものなのかなぁってメチャクチャ疑問。
たぶんそれが今時の感覚なのかも。



なにか、SNSが出てきたのが相当いい大人になってからのアタシの感覚では、SNSって見えない部分が多すぎて信用ならないというか、信用するまでにやりとりの回数もそうですが、まぁまぁいい時間が必要って気がするのです。けど、ニュースになってるようなのって「繋がってから」の時間が、少なくともアタシが考えているよりもずっと短い。今時の感覚では「繋がった」ことがなにか「信用」の「保証」みたいな感じになってるのかなぁって、そこのところの感覚が良くわかりません。
っていうか事前に「繋がってる」っていう事実が「親しい人」と勘違いしちゃうのかなぁ。


アタシの感覚からすると「初対面」ていうのはものすごぉ~~~くハードルが高いというか、特に今回みたいなのは1対1ですよね、そういうの絶対に「無理」って思っちゃうのですが今時の感覚ではフツーなのかな。友達と一緒に、友達の友達に会うとかいうのなら初対面でもまぁアリかなって思うのですが。


なんかなぁ、今の世の中なにをやっても自由なのは良いけど、やはり選択する責任をキチンと考えた方がいいと思う。



* * * * * 後日記


ニュースでは「面識はない」とのことです。今時の感覚だと「面識はない」=「知らない」ではないんだなぁとホント感覚が違い過ぎてなんとも・・・。
「面識はない」≠「知り合い」=「SNSで繋がっている」ってことかな。


以前から言ってますが、こういう「事件」だと誘拐する男が100%悪いというような話で終わってしまうけど、アタシは落ち度はなくても責任はあると思っている。小学生に「責任」なんて無理というのであれば親の監督「責任」なのでは。
くれぐれも言っておきますが、誘拐する側が100%悪いのは、そんなのは当たり前のことです。でも、たとえば泥棒に入られた時に、泥棒が悪いのは当たり前だけど、戸締りをちゃんとしてなかったとしたら、ちゃんとしてたら泥棒に入られなかったかもっていうのはあると思う。(今時なら更に防犯カメラとか。)単にラッキーだっただけという可能性もあるけど、やはりラッキーを引き寄せるぐらいな「対策」は必要なのでは。


だから、単純に無事でよかったね、誘拐する側が100%悪いで終わるならこれからも同じような状況が発生すると思う。どうしてそうなったか、どうしたら防げたかって考えることが大事だと思う。