パパ、ママ

昨日の「カフェイン11/bayfm78」で新藤晴一さんが「パパ、ママ」について話しておられたが、個人的に私の文化にもお父さん、お母さんを「パパ、ママ」と呼ぶのは「無い」、完全に有り得ない。
というわけで、私自身も子供に自分のこと、ダンナのことを「パパ、ママ」とは呼ばせなかった。かなぁ〜りキツク子供に言い聞かせてたな。


「お母さんは『ママ』じゃないからね。」って。(ちょっと大人気ないか?)


っていうか、なんで「パパ、ママ」と呼ばれなくちゃ、呼ばせなくちゃならんの?日本人なんだから日本語でいいじゃん、とか思っちゃう。これ、英語が出来ないヤツの発想でしょうか?


でもなぁ、新藤さんはあんなこと言いながら自分に子供が出来たら「絶対」に「パパ」って呼ばせると思う。
「パパでちゅよぉ〜♪」って。



あとね、「どうして話がとまらないか」という質問(女の不満バッティングセンター)に対しての投稿についての解説で「誰かがしゃべることって場の雰囲気がすごく良くなる」、「責任感を持ってしゃべるのはいいと思う」というようなことも言っておられた。うん、うん、それはそう思う。でも、盛り上げる?ために責任感持ってしゃべるのはかなりのエネルギー、パワーが必要だと思うのね。
家の場合、ダンナとの沈黙は特にそれが普通という気もしていて、だけど盛り上げるため?に一方的にしゃべったりもしてきたけど、結婚してそれなりの長い期間でそのパワーを使い切った感がある。なんていうの?付き合ってた時に貯めてた?パワーで結婚後も話かけ続けてきたように思うのだけど、
肝心のパワーの補充(補給かな?)が出来ないまま、要するに入力がないまま出力し続けていたら底もつきます。
今の私はそんな感じ。


「男の人って良く黙っていられますね、不思議です」と投稿者の方が言っておられたが、イヤ、別に男じゃなくても・・・少なくとも私は黙っていられる。黙っていてもいい人の前ではしゃべらん。周りのみんなからは私はおしゃべりと思われているけど、それはホントに「サービス精神」みたいなものからで、沈黙に耐えられないだけ。イヤ、むしろしゃべりたくない、しゃべらなくてもいいのであれば。
(というわけで、しゃべり出すと別人格くらいに人間性が変わると自分では思ってる。しゃべらない時の暗い私が本当の私。)