他人の目は気にならない

あたしってば他人の目をほとんど気にしないで生きてる人間だと思う。それは外見もそうだし、たぶん内面というか精神的な面というか・・・気持ち?みたいなものについてもそうだと思う。
他人からどう思われたっていいや・・・・って、そんな感じ。
まぁ、それによって家族がイヤな思いをするとか、そういうことがないようなくらいは気にしていると思うけど。
逆に他人のこともほとんど気にならない。他人がどんな格好をしていようが、どんな行いをしていようが、別に関係ないし・・・と思う。ただし私から見て「だらしない」「みっともない」と思うようなことは自分自身としてしないようにっていう気持ちは働く。



けど、若い時はそうじゃなかった。
他人からどう見られるかとか、どう思われるかって、ものすごく気にしていたと思う。あ、だから今も小心者なのかもね。



最近なんでこうも他人は他人、自分は自分みたいな気持ちでいられるのかなぁ・・・と考えてみたんだけど、これって情報量の違いじゃないかなぁ・・・と思うようになった。
若い時って、自分が生きてきてる時間的なものや経験が、少なくとも今よりは絶対に少ない。だから自分自身のことを考えて、更には周りの人が自分のことをどう思うか・・・みたいなことまで考えられる。言い方が悪いと思うけど、それぐらい「ヒマ」なんだと思う。
けど、歳をとってくると、例えば今の自分を考えれば自分のことや家族のこと、昔よりは広がってる他人との関係(例えば義理的なものも含めて)なんか、とにかく自分の中の情報として処理していかなければならないことがハッキリ言って多すぎる。ひょっとしたらその情報すらも処理出来てないと思う。そこにわざわざなんの関係もない他人の気持ち(他人から見た時に自分がどう思われるかみたいなどーでもいーこと)なんか入れる余裕がない。


だから、他人からどう見られていようが、もう全然関係ない。
あ、要するに自分の中のそういう「器」がちっちゃいってことね。もっと「器」の大きい人はバランスよく「他人からどう見られているか」とか「こういうふうに見られたいからこんなふうに行動しよう」とかっていうのを働かせられるんだと思う。
あ、ひょっとしてこういうのが正に「器量」ってことなのかしら?



自分のこと頭いいとは思ってないけど、ものすごく「超」バカだなって思えてきた。