環境活動家

理想を持つことは大事だけど、本当に大事なのは現実を理想に近づけるための具体的な対策を考えることじゃないかと思う。


アタシ自身、ホント、人間てやり過ぎだよなって思っています。でも、アタシ自身が電気やガスや水道をふんだんに使って有難い生活をしています。だからアタシが偉そうなこと言っても説得力がない。


国連で演説したらしい16歳の少女が言ってることは(アタシは内容知らないのですが)たぶん正しいことなのでしょう。


が、だったらどうしたらいいのかっていうことは言えないんじゃないかと思う。いやいや、そこを大人が考えろって言ってるんでしょって言われるかもしれないけど、ソレを言われたらそんな簡単なもんじゃないと言うしかない。



アタシは思うのですが、世界中の人が自分で綿や麻を育てたり蚕を飼ったりして布を作って、稲や麦やそのほか諸々の野菜を作って食料にして、移動は徒歩か馬、みたいな生活したら(たとえば来年の1月1日からそういう生活をしなければならないみたいな法律が出来たとしたら)地球温暖化って少なくとも進みはしないんじゃないかと思う。(イヤ、たばこと肺がんの関係みたいに何年か経たないと結果は出ないのかもしれないけど。)
でも、現実問題としてそんなこと政治家とかそういうレベルのハナシじゃなく、世界中の多くの人が「イヤです」っていうでしょ。


自分自身のこととして、毎日スーパーで肉や野菜を買って、着てる洋服だって衣料品店で買ったものです。そしてたぶんソレらは「工場」みたいなところを通ってきてるはず。中には、自分で野菜を作ってるとか、洋服は自分で作ってますって人もいると思いますが、それにしたって「いちから」作ってるわけじゃないですよね。そういう根本的なこととか含め、理想だけではダメだと思う。
っていうか、そういう恩恵に与りながら一方で自分はちゃんと考えてる、大人はなにをやってるんだと言われても・・・いつものアタシのように、なんか説得力に欠けるんだよなぁ。


演説した環境活動家の人はスマホとか持ってないのかな。16歳じゃ持ってないかな。
なんかね、スマホとかホント、一番最初になくしたらいいと思っちゃうもん、アタシは。




* * * * *後日記

16歳の環境活動家の少女がノーベル賞の平和賞の候補になってるようです。
個人的にはなんかなぁって思いますが、選考委員?みたいな人達が「この人では」って思っているのならソレに相応しい人なのでしょう。


アタシ、このノーベル賞とかなんとかいうハナシが出る前にふと、思ったのですが、環境活動家って宗教に似てるなぁって思ってしまいました。
アタシ自身は宗教について詳しいわけじゃないので、もう先入観みたいなので「決めつけてる」かもしれないですが、宗教も「理想の世界」みたいなのをつくることを目標としているんじゃないかって。
例えばソレは最終的には神様がやってくれる(救ってくれる)のかもしれないけど、なんというか「信じる者は救われる」みたいなのがあるじゃないですか。もちろん、ただ信じているだけじゃなくて、信じている人は他人に対して優しくとか平等にとか、そういう行動はしてるのかもしれないけど、社会の仕組みを変えるみたいなことにはなってないような気がする。だって、仮に完全な平等みたいなハナシになったとしたら(あくまでも宗教についてです)みんな自分が信じている神様を「捨てたら」いいだけじゃん。宗教をやってる人(特に宗教が元で戦争とかやってるような人達)はたぶん誰もが「この神様を信じたら救われる(しあわせになれる、理想の世界になる)」って思っているんですよね。そこの仕組みは(今のところ)絶対に変えられない。一人一人が「信じて」救われるしかない。


なにか環境問題も、実際に環境破壊をしないための技術なり社会の仕組みなりを作ろうとしている人こそが環境活動家と言われるべきなのではないかって思ってしまいます。
「環境を守るために自分のすべきことをしよう」みたいなことを言うのは(それが大勢の人の関心を集めたとしても)なにか単なる宗教に過ぎない気がする。
(決して宗教を見下したりしているわけではないです、人にとって「信じる心」は大切。ただ宗教と環境問題はアタシの中では完全にベクトルが違うと思っている。)


やり方は違ったとしても環境活動家の少女がマザーテレサみたいだったら「なるほどなぁ」と感じるかもしれない。



* * * * * 更に後日記


環境活動と宗教が似てると書きましたが、一番「厄介」なのは、宗教は単純に「気持ち」の問題であるのに対して環境活動は気持ちの問題ではなく物理的(科学的)なことだということ。もちろん問題提議という意味では「気持ち」は大事だけれど、ただ「目指してる」だけでは「彼等」が批判してる?環境対策を「やっているふりをしている」各国政府となんら変わらないと思う。
宗教は各個人が気持ちを持って「幸せ」になることが出来ても環境問題については各個人が気持ちを持って出来るとしたら「二酸化炭素を排出する文明的なもの」を一切使わないという行動が必要、気持ちだけあっても「やってるふり」をしてるのと変わりない。


でも、そうなると・・・もうね自分の着てる服だったり使ってるもの、ほとんど使えなくなるような気がする。
そこまでしてる環境活動家っているのかな。
一部のことをちょっとだけやって「やってる」というのは「やってるふりをしている」のと同じだとアタシには思える。