「才能」について。

前からず~っと書こうと思いながら、たぶん長文になるので(まぁ全体的に長文が多いですが)なかなか書く気にならず、今になってしまった。


アタシは今も昔も評価されている人(成功している人というのか?)は才能がある人だと思っている。
こういう言い方をすると「そのために努力をしたんだ」という人がいるかもしれないけど、「努力する」というのは大前提で、みんな努力はしていると思う。そして、仮に評価されている人が「自分は自分の努力だけで成功した」と考えているとしたら傲慢にも程があると思う。
よく成功している人が「努力すれば夢は叶う」みたいな言葉をいうことがあるけど、アタシはその言葉も本当にイヤで、では、夢を叶えられなかった人はみんな努力が足りなかったのか、そんなことはないとアタシは思う。だから、そういう言葉はこれから努力をしていかなくちゃならないだろう子どものための言葉だと思っている。


たぶん多くの人が(というか一般的に)「才能」(素質と言ってもいいと思う)という言葉を使う時「みんなから評価される才能」、つまりみんなが「いいなぁ」と思うような才能のことだけを「才能」と言っていると思う。
けど、良く考えてみて欲しい。
みんなが「いいなぁ」と思うその基準は時代や世の中の状況によってどんどん変わっていってるはず。
例えば、容姿でいうなら平安時代の美人と今時の美人の基準は違うはずだし、最近になってオリンピックに採用されるようになった競技とかで優勝している人も、もしその人が100年前に生まれていたとしたらその「才能」を発揮する場所はなかったはずで、そうなると日の目を見ないまま「才能」がないってことになっているはず。


アタシはメチャクチャ肌質が悪く、シミやイボが顔や首はもちろん体中にいっぱいある。こういうこと言ったら「手入れしてないんじゃないの?ちゃんとやっていたらきれいな肌のままのはずだよ、努力が足りないんじゃないの」みたいに思う(特に)女性が多いんじゃないかと思うけど、確かに歳をとって加速しているのはありますが、高校生ぐらいからず~っとです。アタシも若い時はまぁまぁ見た目が気になったりして形成外科(整形外科じゃないよ)にかかったりしたこともあったのですが、そこの先生に「あなたはそういう肌の【天才】だから、天才にはやりようがないの」と言われた。正直全然嬉しくない「才能」ですが、確かに言われてみれば「才能」かもな、と思う。
いい、わるいを決めてるのは人間で、元々持って生まれた「才能」。


そう考えると、人間はみんな、全員なんらかの才能を持っているはず。
でもわかりやすく評価される才能と、持っている本人も気付かない才能と、その辺りがメチャクチャ難しいところ。
今はネットなんかがあるから、自分の得意とするものを外に向けて発信することが比較的ラクに出来て、評価される機会も多いけど、そもそも自分の才能に気付けるかどうかというのはすごく難しくて、例えば日本の伝統文化みたいなことに対する「才能」を持った人が地球の裏側にいるかもしれない。けど、その地球の裏側にいる人は日本のことなんか知らないだろうし、知っていたとしてもソレをする機会がない。ということはやらないまま一生を終えることもあるわけで、本当はものすごい才能があったとしても日の目を見ないままになる。


そう考えると、小さい頃から(と限定しなくても良いかもしれないけど)色々なことに接する「機会」があるってことは、自分の中の「才能」を見出す機会が多くなるということなので、例えば習い事始めて短期間でやめることになったとしても全然問題ないと思う。(ただし、親の意見としては長く続けて欲しいと思うし、経済的にもあれもこれもは難しい。)

そういう色々なことを考えると評価されてる人達は自分の才能に気付けた人(あるいは周囲の人が気付いた人)で、しかもその才能がみんなから「いいね」と思われる内容だったこと。才能があるのはもちろんだけど、相当ラッキーでもあるはず。


「あの人には才能がある」っていう言葉には【評価される】いう言葉が省略されていると思う。
生きている人全員に才能はあると思う。いい、わるい関係なく「才能無い」と思っている人は単純に気付けてないだけ。
(でも、アタシみたいに気付いた才能が全然嬉しくない残念な場合もある。けど、何百年後かのだれかには「そんな肌だったなんて羨ましい」って思われることが全くないとは言い切れない。まぁたぶんないだろうけど。)