ある意味「社会」の崩壊なのでは。

少し前にテレビで見たのですが、今は企業で「上手な叱られ方研修」なるものをやっているそうです。
(もちろんテレビで取り上げられるくらいなので、どこの企業でもやっているってわけではないと思う。)


アタシは学者じゃないので、あくまでも想像というか、思い込み?かもしれないですが、そもそも最初(原始時代とか?)は全ての「教育」を身近な人がやっていたのではないかと思うのです。例えば子供が今後生きていく上で必要な全てのことは親とか、もしそれがもうちょっと大きなグループなら親+もっと年長者とか、集落?とか村みたいなことになっていたら長老とか。(そしてそれは単なる教育だけではなく、文化の伝承だったりもしたはず。)


それが、段々勉強に特化(という言い方はちょっと違うけど)していったのが学校なんじゃないかと思う。ある水準の教育をみんなが受けられるのが学校。
で、とりあえず、昭和ぐらいまでは(そう断言出来ないですが)学校は勉強するところで(あと集団行動的とか)、それ以外は家庭って役割分担がされてたんじゃないかと思う。そうは言っても先生が生活態度なんかを注意するとかフツーにあったと思いますが、そういうのも今とは違って?「先生の言うことをちゃんと聞きなさい」っていう親がほとんどだったんじゃないかと思う。(まぁ「先生」に対する感覚も今とは全然違って「聖職」とか思われてた時代、そしてたぶん先生もそれに応えている人が多かった時代。)


でも今は、勉強のみならず、生活全般学校にお願いって感じが結構あるような気がする。(なにかあればすぐに「学校の監督責任」みたいな。)


そして、それこそ社会人になって就職してからの「上手な叱られ方研修」って・・・。


古いアタシの感覚からすると、イヤイヤ、それはその年齢になるまでに既に習得していてしかるべき「スキル」なのでは、って思ってしまいます。
ということは・・・それまでにそういう機会(「誰か」に叱られる、そしてそれを「誰か」がフォローしてくれるみたいな機会)が無く今に至っているということで・・・それって昭和とかなら家族(家庭)内とか地域内で、ある意味否応なしに存在した場面ではなかったかと思うのです。


そう考えると・・・今って家族(家庭)とか地域社会で昔担っていた役割を果たしていないということで・・・もっと言えば今の世の中に「家族(家庭)」とか「地域」って意味のないものになってるんじゃないかと思うわけです。
(「なくても良いもの」みたいな・・・。っていうか、そこまで考えるとなんのための家族か・・・とも思う。)
まぁ、個人重視の世の中であれば、これはしょうがないことなのかもしれないけど・・・


でもそうなると、それって、ある意味「社会」の崩壊なのでは。


だって、元々家族(家庭)とか地域社会がしていたことであれば、「その辺り」で生活していた人達はみな似たようなスキル?(と言っていいのかな?)みたいなのが共有されてるんじゃないかと思いますが、それがなされていないのであれば、この「上手な叱られ方」も研修やってる企業に入った人だけが身に付けられるスキルってことになるじゃないですか。


そうなってくると以前書いてるはずですが、もうこれからの世の中は子供が生まれたら「子供を育てる」、「教育する」みたいな場所に生まれた子供全員を集めるようにして、みんな同じように育てていったらいいと思う。そしたら少なくとも「与える側」としての不公平もない。(そして女性に対する「障害」なんて言葉もなくなる。)



ここまで書いてて思いましたが・・・・これって人間を「養殖」するってこと?(っていうか「人間製造工場」みたいな気もする・・・。)
でも、家族(家庭)でも地域社会でも、本来大人になるまでには身に着けて欲しい色々なことが身に付けられる状況にない社会なのであれば、全てを均等に与えるの場所が必要なのでは。


人間て・・・なにがしたいのか。